
俳優としても活躍、また暴行、レイプ、 投獄というセンセーショナルなゴシップを放ち続けヒップホップ界で絶大な人気を確立していた 2PAC の生涯を知れる映画を是非一度は観てほしいので紹介したいと思う。
ヒップホップの伝説 2PAC の自伝映画『』とは
成功への道のり、仲間との別れ、裏切り、カリスマ性と名声の代償、警官狙撃、名誉毀損で告訴、東西海岸抗争、そして自身の被弾。センセーショナルなゴシップを放ち続け25歳の若さでこの世を去ったヒップホップ界のレジェンド 2PAC 真実の物語を知れるヒップホップ映画だ。
2PAC の映画『オール・アイズ・オン・ミー』のあらすじ
- 1971年 ニューヨークから物語は始まる
- 1982年 ブロンクス
- 1987年 ボルチモア芸術学校に通う
- 1988年 カルフォルニアに引っ越し
- 1990年 デジタル・アンダーグランド・ツアーでシカゴへ
- 1991年 ヒップホップアーティスト 2PAC デビュー
- 1993年 ニューヨークで2大ヒップホップスターの出会い
- 2PAC の運命を変えるシュグ・ナイトとの出会い
- 1993年 アトランタで事件
- 1995年 2月8日 レイプ事件の判決が下る
- 1995年後半 ヒップホップ東西抗争の始まり
- 1996年 2PAC デス・ロウ・レコードへ所属
- 1996年9月7日 マイク・タイソンの試合観戦から 2PAC の最期まで
それではヒップホップ映画 ALL EYEZ ON ME (オールアイズオンミー)を時系列で詳しく解説していきます。
1971年 ニューヨークから物語は始まる
『自由は勝ち取るもの』
ニューヨークで最も長く続いた裁判が終わりを迎え”パンサー21”は警官殺害と庁舎爆破容疑についてすべて無罪となった 2PAC 母。
この時お腹にいるのがのちの 2PAC 。
1982年 ブロンクス
ムトゥル・シャクールが FBI の最重要指名手配犯になり 2PAC 一家は尾行されるような生活を送っていた。
ムトゥル・シャクールが銀行強盗容疑でクリスマスの夜に自宅へ銃を持った FBI が押し寄せ理不尽な捜査を受け家を出ていくことなる。
1987年 ボルチモア芸術学校に通う
2PAC はボルチモア芸術学校に通いはじめ演劇の道へそこで親友ジェイダとの出会いがあり演劇の道へ。しかし 2PAC は母の要望で「引っ越し」をせまられる。
1988年 カルフォルニアに引っ越し
カルフォルニアに引っ越してきた初日に目の前で人が殺されるという壮絶な始まり。詩のワークショップでレイラと出会い 2PAC がラップをはじめる。
ラッパー『トゥパック・シャクールの誕生』の瞬間。
その後、金が必要になった 2PAC は学校をやめてカルフォルニアへ行きラップを始めることになる。
1990年 デジタル・アンダーグランド・ツアーでシカゴへ
離れていた母が 2PAC と妹の住む部屋に現れ薬物を買う現場に出くわし、このままではダメだと感じた 2PAC は本気でヒップホップの道を突き進むことになる。
1991年 ヒップホップアーティスト 2PAC デビュー
スターの階段を登り始める 2PAC は俳優デビューもはたす、これが映画『JUICE』だ。ビショップ役の大役を果たした 2PAC はジェイダが女優として活躍していること知る。
これが名曲『Brenda’s Got a Baby』だ。
強烈するぎるリリックが受け入れれないと言われていたが目の前でラップを聴かせてインタースコープ・レコードと契約をきめる。
アルバムと映画で 2PAC の人生は大きく変わり始めた矢先に、オークランドで信号無視をしたと白人警官にいちゃもんをつけられ逮捕される。
ムトゥル・シャクール と面会した 2PAC は革命家とギャングの組織を1つにまとめるように言われ『苦しむ人導くためにはそこに身を置かないと』いけないと 2PAC が使っていた言葉 『Thug Life(サグ・ライフ)』が誕生。
アメリカ副大統領が声明を発表するほど 2PAC のリリックの強烈さや影響力があると警戒。
1993年 ニューヨークで2大ヒップホップスターの出会い
のちの2大ヒップホップスター、ビギーことノトーリアス・B.I.G.(The Notorious B.I.G)との出会い友情が芽生える。『失敗は運命ではなく自分の中にある』と、警官殺しの濡れ衣をきさされたりしていた 2PAC は自身に。
映画ビートオブダンクの頃から私生活が注目されだし1991年以来逮捕は10回を重ねていた。
2PAC の運命を変えるシュグ・ナイトとの出会い
デス・ロウ・レコードのボスでもあるシュグ・ナイトと所属レーベルのビルの下で出会い「サントラに1曲書かないか」と声をかけられる。
まだ友人だったビギーから忠告を受けるナイジェルとの出会いが描かれている。
1993年 アトランタで事件
女性観のことを指摘されだす 2PAC は女性に捧げるラップを披露。それが『Keep Ya Head Up』
帰宅中に喧嘩をみつけ止めに入る 2PAC は銃を突きつけられ発泡して逃走。
警官を撃ったと逮捕されるがナイジェルに助けてもらうのだけど、その仲間の女にレイプされたとして訴えられる。これが当時話題になったレイプ事件の始まり。

その後ナイジェルの取り巻きに襲われ銃弾を受けた後、医師の診断を無視して車椅子で退院、レイプ事件の判決へ。
1995年 2月8日 レイプ事件の判決が下る
1995年に性的虐待で懲役4年6ヶ月の有罪が確定し刑務所へ。
最新アルバムはビルボードで初登場1位で服役中のアルバムで1位は史上初だった。このときの保釈金は140万ドルとも言われている。
1995年後半 ヒップホップ東西抗争の始まり
1995年後半、刑務所の中で Notorious B.I.G. の Who Shot Ya? を聴いた 2pac は自身に対する襲撃未遂はバッドボーイが差し向けたものと解釈することになり、これが後の『ヒップホップ東西抗争』の始まり。
ビギーと 2PAC の友情が終わり、ヒップホップ史上語り継がれる「東西抗争」がはじまるきっかけの曲でもある。東(イーストコースト)のヒップホップを代表するBad Boy (バッドボーイ)と、西のヒップホップを代表するDeath Row Record (デスロウレコード)はギャングやマフィア等を巻き込み、発砲、襲撃、暴行事件にも発展するような対立状態だった。
1996年 2PAC デス・ロウ・レコードへ所属
シュグ・ナイトとの契約で刑務所をでることになった 2PAC こと「トゥパック・アマル・シャクール」はデス・ロウ・レコードへ所属後、ドクター・ドレー(Dr.Dre)との California Love (カルフォルニア・ラブ)は鮮烈的。
さらにはスヌープ・ドッグ(Snoop Dogg)との Gangsta Party などヒップホップの名曲を連発。
ヒップホップ 2枚組アルバム『All Eyez On Me』の発売だ。
1996年9月7日 マイク・タイソンの試合観戦から 2PAC の最期まで
翌年 2PAC はシングル Hit Em Up をリリースする。この曲は自分がビギーの妻でもある Faith Evans (フェイス・エヴァンス)と性的関係を持ったということをラップしているのだけど、この曲で東西の当時のヒップホップ2大レーベルの対立をより激化させることになる。
1996年3月マイアミで行われたソウル・トレイン・アワードの授賞式では、両レーベルの多数の取り巻きが銃をぶら下げて対峙するという深刻な事態を招いた。
そして1996年9月7日 2PAC は友人でもあるマイク・タイソンの試合を観戦しにラスベガスへ向かう。

試合観戦後に彼女でもあるキダーダ・ジョーンズとのやり取り後にシュグ・ナイトと車でクラブに向う途中に横付けした車から銃弾を数回撃たれ、同年9月13日に死亡というところまでが描かれている映画だった。
まとめ
デビュー後の 2PAC の騒動や様々な事件などはあまりにも有名だし当時衝撃的だったのである程度知っていると思ってみていたけど 2PAC の幼少期や革命家でもあったムトゥル・シャクールとのことなどは、あまり知らなかったところだったり、彼女でもあったキダーダ・ジョーンズとの出会いなど、まさに HIPHOP 界の頂点に立った男 2PAC 真実の物語に相応しい内容のヒップホップ好きには堪らない映画だ。
もしまだ観てない人は1度は観るべきヒップホップ映画でもある、僕は久しぶりに観たくなって U-NEXT(ユーネクスト)でみたのだけど、今なら31日間無料で、600ポイントが貰えるので『無料でこの映画を観ることが出来る』映画を観を終わったら解約すれば済むのでマジでおすすめ!